この老人施設に来て、3か月、学ぶことが色々あった。(山脈放送局より)

右手が効かないので、字が思うように書けません。数字や英語も、つい書かないで済ませます。暗証番号も機械が自動的に打ち込んでくれますので、助かります。それを毎日繰り返すと、ある日、自動打ち込みが中止され、暗号を書きなさいと指示が来ます。慌てて元の英数字を思い出そうとしますが、1か月前の書き込みの記録がありません。やはり、暗号は、控えないとその記録さえ終わりです。今の現況がそのようです。いつも大切な番号や英数字は、控えて保存しなければなりません。

今回も同じ過ちです。再びここに帰ってこれぬようなら、新たなブログを始めます。「シンプルに、きっちりと。」が次の生き方の目標です。 

「手のひら療法」は、現代の治療基準に当てはめるより、自由な発想で生き生き進める。(山脈放送局より)

というわけで、自由な発想で生き生きと進めます。果たして、脳出血後の痛んだ脳で答えられますか。最近は、外部に表出する私の面影は、脳出血患者そのものですので、できるだけ頑張ってみます。まず、体の向こうに発する元気を、活動力を強める言葉を考えてみます。「どすこい」掛け声ですね。普段の状態より力を強めるようです。

相撲の掛け声などは、良いようです。「八卦良い」声を下腹から出します。立座り運動にも良いようです。何かこのような動きの時に力を出す言葉を考えましょう。民謡では、どんな掛け声がありますか。「だいじょうぶ」これらは普段の生活では、問題になりません。頭をやられた障碍者にとっては、活力を増す言葉となります。

今日は、立座り運動にこの言葉を応用してみました。なるほど、いいようです。

まず、よくわからないですが、私流「手のひら療法」を形作ろう。(山脈放送局より)

私流「手のひら療法」とは、作ったことは、ありませんので、早速、作りましょう。現代医学的観念ではなく、古代のヨーガのチャクラなどから、話を進めてまいりましょう。チャクラは、解剖学的実体ではなく、心を含めた観念的実体のように思えます。心を含めた観念のようでありながら、実体もあるのです。解剖学では、ありません。目では、見えません。それでも存在しています。

今日で言うと、体の任脈に沿って、縦に並んでいます。それでも解剖学的実体では、ありませんので、任脈や督脈と重なっていません。それをスケールや位置の基準で知ることは不可能です。それでもそれは、存在しています。要するに、現代医学的なものがすべてではないということです。

それを現代医学的な概念と一緒にすることは、ありません。チャクラを結ぶ経絡は、多様で、全身を駆け巡っています。それは、血管や神経では、ありません。その構造はわかりません。結局、何もわかっていません。それで、いいのです。

「手のひら療法」とは、余分なことはしないことで、複雑高度な医療や世界に反対している。(山脈放送局より)

「手のひら療法」とは、よく考えてみれば、複雑で高度な医療や仕組みに物申すものですが、現在のあり方を否定するものでは、ありません。私らが子供であった昭和30年代のころには、お医者様に私の自宅で子供を診察してくださいというとお医者様が来てくれたものです。治療も今ほど複雑では、なく、シンプルだった気がします。いつからか日本では、高度で先進的な医療が好まれる様になりました。挙句の果てには、高い医療費や患者の階層的構造が目立つようになりました。

手のひら療法は、本来、お金のかかるものは、一切、使うことは、ありません。ですから高度な医療ではありません。コンピュータも細胞医療も関係ありません。あるのは余分なことをせず、体の自然な働きに、身をゆだねることです。術者の慈悲心が最大の効力です。慈悲心とは、仏教用語で、真のやさしさを意味するようです。

それがあれば、高度や高額でなくても、いいわけで、つつましい環境で生きていけます。家や自分自身には、「手のひら療法」を多用します。そうすれば福祉・医療費を恐れることは、ありません。

「手のひら」が深い真理を表している。

よく考えてみれば、手のひらには、他の体の部分と異なり、複雑さや調和をそれとなく、感じるのは、私だけでしょうか。手を開いた手のひらには、地球や宇宙さえ感ずるのです。それだけ、まとまっているということです。その手が働くと、奇跡的なことが起こります。私たちの身近では、鍼や灸で、また手のひらで病の人々が癒えるのです。あるいは、芸術では、絵画や彫刻が生み出され、その他あらゆる面で、奇跡が生み出されています。もし一側か二側が不遇になると、奇跡的な有様に出会うことは、少なくなります。それでも人間は、足や舌を使って奇跡を生み出すことさえできます。

お母さんが朝、ご飯を作ります。みそ汁や調理したものでさえ、奇跡です。大変だけれど、思いやりをかけたものは、慈悲心を働かせたもので、ありがたいです。それは、今は亡き方のことさえ、記憶に描き出してくれます。記憶には、言葉や言語ではなく、温かいお結びと心がじわじわと感じてきます。

立座り運動も「手のひら療法」も私たちの同じ体で行われています。

立座り運動は、一昨日は25回で、昨日はデイサービスで、立座り運動自己訓練なしでした。昨夜の小水は、3回でした。これは、トイレまで小水を出しに行くことで、昨日は9時半、夜中の12時ころ、真夜中の2時半ころでした。寝たのが8時ころ、起きたのが6時ころでした。現在は、25回くらいで、体力の限界です。これを少しづつ増やし、やがて500回は、できるようにしたいです。今日の日中は、25回でした。

それはあくまで目標です。私が立てるようになるまで、計画は、続きます。仮に立てたとしても、残りの日々も足の筋力を強めます。ところで、「手のひら療法」のことが忘れ気味です。忘れたわけでは、なく、私たちは、肉体で生きているので、まず、筋力です。筋力と同時に、霊的な波動です。そしてこれが別々にあるのではなく、同時に存在しています。筋肉が目立つところにあるだけで、霊的な波動も確固としてあるのです。

霊的な波動は、私たちの目立たないところにあり、雰囲気や持ち味のようなものとして、私たちに属しています。どちらかというと、肉体よりもあの世に近い感じです。私たちは、あの世からこの世へ、そしてあの世へと動いていくのです。

 

 

1か月、風呂とデイサービスでお世話になりました。

昨年の年末から私の環境は、激変しました。1か月のリハビリ入院があり、その後に、体の調子が思わしくなく、自分の家の階段で、足を踏み外し、2階から落ちて、近所の脳神経外科へ、2週間の入院をしたのです。これで体調は落ち、歩行できなくなりました。骨折は、防げたので、その点は、救いでした。それから1か月ほど後に、自分の住所地を変えなくては、ならなくなりました。

その1か月の間、あまり動けない私を風呂できれいにしてくれて、おいしい昼飯を用意してくださった方々に感謝します。ありがとうございました。後、どれほど残りの日々があるかは、わかりませんが、大切に日々を過ごします。もう、こうなると、命をつなぐことだけに懸命になるのをやめ、何を信じて生きていくかを考えます。

体が思うように動かないので、心を大切にします。