アメリカでは、公的な組織で、看護師さんたちが手のひら療法をやっているそうだ。(山脈放送局より)

話は、とんで、アメリカの病院で働く看護師さん達のことです。ナースと言えば、現代医学と緊密に結びついています。ところがアメリカの看護師のあるグループでは、盛んに手当療法を行うそうです。ドロレス・クリーガーという教育者で看護師でもある創始者のもとに、熱意あるナース達が活動しているそうです。彼女たちは、お手当とは呼ばずに、「セラピューティック・タッチ」と呼んでいるそうです。本を読むと、理論は、現代医学ではなく、古代の医学理論に、現代医学のよいところを取り入れているようです。(「セラピューティック・タッチの技法、意識・エネルギー・治癒」ドロレス・クリーガー著、上野圭一、監訳、加治未央、訳、春秋社、2000年)

その序文を読むと、ジーン・アクタバーグという「自己治癒力」の本を書いた方が序文を書いています。次いで、クリーガーの前文が書かれていて、ただ何となく「手当療法」を行うのでなく、自己の体の内面を意識でセンタリングしながら、施術することを進めています。センタリングとは、たとえば自分の丹田を意識しながら、ヒーリングすることです。自他一体。大いなる自己により頼むことです。ここまで読んで、この施術が現代医学のものでないのがわかります。

手のひらを出して、(自分のでもいいし、誰か患者さんでもいいのです。)痛む部分に目に見えぬ光線をしばらくあてます。自分の中心でその具合を感じます。何となくいい感じがしてきたら、、とりあえず施術を終えます。これがセラピューティック・タッチのやり方では、ないでしょうか。

手のひら療法には、肉体の解剖学だけでなく、意識の解剖学が必要。(山脈放送局より)

手のひら療法には、肉体の解剖学だけではなく、意識の解剖学が必要になります。意識つまり心と言えるものですね。それをよく表したのが、古代インドやその他の古代医学です。人間がやることには、いつでもどこでも心がからみます。それでこそ人間の骨であるし、臓器なんです。それを古代人たちは、素直に認めていました。チャクラとは、人の体の正中にある臓器のようですが、それは臓器だけではなく、「働き」のような心の作用を持っています。ですからチャクラは、肉眼では見えません。それでもそれはあります。

古代のアジアの人たちに共通する解剖学です。人を元気ずかすには、へそのすぐ下にある丹田などを活性化させて、心も生き生きさせるのです。でも丹田の姿はありません。姿は、見えないですけれど、心や意識では、つかめます。そのような心の作用を追い求めて、「手のひら療法」も追うのです。このような解剖学は、古代では、常識でした。日本でも江戸時代中期までは、当たり前でした。西洋の解剖学の細かさ、現実の臓器にそっくりなのに騙されて、江戸時代中期頃より日本の医学は、変わったのです。当時の漢方家たちも、蘭学の先進性に驚いて、タジタジになってしまったのです。

でも結局は、当時のヨーロッパの医学は、犯罪者たちの死人の医学で、そこに生ける生き生きとした生命の医学では、ありませんでした。それは後の時代になって挑戦されてきました。

手のひらや指で、目に見えない光線や光を発信し、治療に結びつける。(山脈放送局より)

手のひらや指で光線や光を発信し、目標物に当てます。これがで形では誰でもできます。手から出ている光を目標物に当てているだけで、そのような様子は誰でも可能です。実際に光が出て、効くか効かないかだけです。気功などもそうですが、「その気になる」ことが光を出すことに通ずることです。その気になって光や気を出すようにしてみるのです。もう一つの方法は、「自然になること」です。その気になることさえ捨ててみるのです。そうすれば、他の何者かが働いて光を出してくれるはずです。

あとはやってみるだけです。このブログは、名付けて「山脈放送局」です。日々の混乱の生活にありながらも、心は山脈の空気のように感じられて、とてもさわやかです。作者は、車いすで歩行できません。が、私の山脈の上では、飛んだり跳ねたりしています。大きな声で山の上から人々に呼びかけます。「俺達には、自分を治す力が与えられているぞー。」ってね。地球や人間の歴史を見ると、中枢性の脳疾患などでは、不可能とさえ思えます。それがそうではないようです。

初めからあきらめるのではなく、自分の体と相談し、細胞たちと話し合い、前を向いて歩みます。それができるのは、私たち病気と向き合っている人間です。

 

私の体調は、衰えている。これでよい体調に持ってこれれば、先行きは明るい。(山脈放送局より)

「山脈放送局」、これは我がブログに名付けた名前です。希望に満ちた表現を使いたいですが、現状をありのままに伝えたいです。夜、5回ほど小水に行きます。夜7時半に寝て、明け方は4時半から5時です。この間に小水5回であれば、熟睡はかないません。昼間のデイサービスに出席しながら、意識が覚醒しません。半眠りといったところでしょうか。それでもありのままに伝える、それが「山脈放送局」です。それから右半身がマヒしていますので、動きが不自由です。痙性マヒというものです。右目が思ったように開きません。右目は、絶えず涙を流しています。

さて手のひらより出る光線のようなものが、そのような症状を和らげてくれるものでしょうか?そう、「はてなブログ」です。おそらく直ぐには、無理でしょう。何しろ、このような治療は、初めてで経験もありませんし、自然の力を信じているだけなのです。自然の力といえば、神や仏の存在です。決まりきった神や仏でなくとも、ある種のパワーが働くといえないでしょうか。それは十分にあるはずです。創造力、意志力、など。

「山脈放送局」では、手のひらや手に関する希望を告げていきます。地球に生きてきた人間であれば、だれでも人を癒す手を開発することができます。高い山の上から人々に呼びかけます。

脳卒中後遺症こそ、手のひらで挑むやりがいがある。

脳卒中後遺症というと上下肢のマヒや言語障害などが目立ちます。歩ける方も多いのですが歩けないで寝たきりになる方も多い病気の一つです。事実、高齢者の方々の寝たきりは、脳卒中後遺症が一番の原因であるようです。私も十年ほどは歩けましたが、今年の2月に家の階段から落ちて脳神経外科に入院して、立って歩けなくなり車いすの生活になりました。

「手のひら療法」の本を読むと、治した症例のうちに脳の病が多いのに気づきます。「手だけで?」と思うのですが、それが私たちの誤った意識です。現代医学が100パーセント信頼できるのなら、その考えは、もろいかもしれませんが、現状ではそうではありません。手のひらや指で(外側から頭蓋骨を通して)頭の患部に触れ、心を病を起こしているあたりに持ってくるのです。その後に必要なのは、心の集中です。

理屈で考えられるのと、実際は違うかもしれません。できればよい事実を探し出し、まず現状の私の不快から逃れ出て、仕事ができるようになり,その力で同じような境遇にある人たちの役に立っていくつもりです。今、手から出る温もりに心を合わせ生きていきます。

 

私は、かって7年の間、ブログを書いていました。

私は、かってブログを書いてきました。およそ7年ほど、ほぼ毎日書いていました。脳出血をしたのが10年以上前のことです。ですから闘病中にブログを書いていたのです。ブログの名前は、「細胞たちとつくる東洋医学」でした。これを見ていた方には、大変にお世話になりました。感謝します。

さて当時の無料ブログは、私のようなブログの詳細がわからない人間には、うってつけで楽しかったです。ところがその会社の方針で、記事が書きづらくなってしまい、「はてなブログ」にお世話になっています。それとともにブログの内容を絞りました。治療を手だけに限り「手のひら療法」としたのです。

手と身体を行きかうのは、意思であり、意志です。心と言っていいのかもしれません。血液や神経は、副次的で大切ではありますが、すべてではありません。このような状態でどう話を進めていくのか、難題です。でもそれが人間の土台であるならばよい回答が得られるはずです。私のブログ名も皆さんに分かるように覚えられるように記憶にとどまるように変えていきたいです。

私の放送局としての我がブログー山脈放送局

私のブログを考えてみるに、自分の発想を声ではなく、文字で告げるので、いわば放送局のようなもので「山脈放送局」と呼べるかもしれません。

なぜ「山脈」なのかは、心の声で高々と呼びかけるものであるからです。主催しているのは、立つこともできない車いす障がい者であるにもかかわらず、心の姿勢は、あくまで高い山脈の上から皆さんに呼びかけるつもりです。放送局の名前は、愉快な知人の発想に由来しています。

目的は、手当です。手当療法、手だけで病を癒すこと、これを追います。何年か追い続けます。手当は、母の医学です。知識よりも思いやりが大切です。おばあちゃんや母の思いやりの医学です。女の人の慈悲心の医学です。これに劣った女性でも男性でも人間であれば向上すること間違いありません。それでは、また書きます。